29歳と10ヶ月。あと2ヶ月で20代が終わる。
そんな2007年の暖冬。乳がんの告知を受けた。

今後どうなるのか、とても不安で仕方ない。
だから自分のため、これを読む誰かのために、私が日々思い
考えることを記録し、経験として綴っていきたい。

これからも穏やかに笑ってすごしたいから、少しずつでも前を向いて生きていきたい。


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018/仕事復帰と退社



手術から2週間したころ、私は職場に復帰した。

腕の動きは不完全で、体力は落ちているものの、
職場ではPCに向かい、いつもの作業ができた。


会長や社長が、入れ替わりやってきて、
私の様子を見ては、あまりの普通さに驚いていた。


そして、今後どうしていくのか、
ということを話すため、打ち合わせ用のデスクに呼ばれた。
私は、治療をしながらも仕事を続けていきたいし、
先生も、そうしてくれて全然大丈夫です。といってました。
そう伝えた。


結果は、こうだった。


私たちの職業は、深夜残業や徹夜にもなる職業で、
体への負担も心配な上に、
休みがちになったりする人を、会社は雇っておけない。



病気と分かって、クビになったのだ。



怒り 怒りマーク怒りマーク怒りマーク怒りマーク怒りマーク怒りマーク

正直、はらわたが煮えかえるほどの怒りだった。

病気だからといって、どうしてクビにならなくちゃいけないんだ!!!
そういうところをフォローできるからこそ、会社なんじゃないか!?

悔しくて、悔しくて、涙が出そうになった。
泣きたいのをぐっと我慢して、仕事は続けたい。と訴えた。


だけど、いくら言ったって、代わりは沢山いるんだ。
使えないコマは捨てるだけ。

結局、最初から意見なんて聞く気もない。
答えは決まってるんだ。


楽しい同僚とやっと仲良くなったのに・・
せっかく、気の合う上司に巡り会えたのに・・
外部のスタッフとも、もっといい仕事したかったのに・・


自分の居た会社が最低だっということ。
だけど、一緒に働いた人は、みんなステキだったということ。
強く実感した。



復帰からたった3週間で、会社を辞めさせられた。




017/胸の傷あと



いよいよ
胸とわきの手術跡を見る日がきた。


一番に見たのは、
ドレーンがついていたであろう場所。
ポチっと穴があいたような、へこみのある小さな傷。


そしてわきの下。
テープを取ったそこは、皮膚がすり傷のようになっていた。
赤くただれ痛がゆくて、動いたり触るだけでも痛かった。
傷は、予想していたより大きく、4〜5センチぐらい。
でも、わきのしわが一つ増えたような見え方だったので、

へ〜こんなもんか。
これなら、夏もノースリーブもキャミも着れそうだなっ。

そう思えた。



そして、一番気になっていた、胸の傷あと。
恐る恐る、見てみる。
見たくないような、見たいようなそんな気分だった。しょんぼり


結果、そこには予想外の、胸があった。


上から見ても、正面から見ても、
ほとんど傷が見えない状態だったのだ。

びっくり

胸下の丸いラインに合わせて切られていて、
さらに、上からそこに胸が乗っかる形になる。
これはそのうち普通になりそうだなぁ。
という、漠然としたイメージがあった。

もともと右胸が大きかった私の胸は、手術をすることで、
逆に驚くほどバランスがとれていた。

もちろん、わずかな変形はあるけど、気にするほどではない。


安堵とはこの事を言うんだろうか・・


容姿に関する、全ての不安が一瞬にしてなくなった。
心底ほっとしたのだ。

温存できた上に、ほとんど形も変わりない。
今後も、普通の下着を付けて、
銭湯や温泉にも、気兼ねなく入れる・・・


病気にはなってしまってるけど、
そんな中でも、やっぱり自身の運の良さを、重ね重ね思った。楽しい
016/自由の身 縛られる心
その日、一週間ぶりに、シャワーを浴びた。
ろくに体も洗えなかったけど、最高に気持ちよかった。

脇についた管が取れただけで、
こんなにも開放的な気分になるんだ。。
ドレーンが取れた翌日、
病院の施設も、退出する事ができた。



しかし、街を歩けばその騒がしさに驚き、
駅のアナウンスの大きさに、耳をふさいだ。
いつもなら、普通にできていたことが、
病み上がりの体には、それぞれがとてつもなく負担になる。


乳がん経験者は、誰もが味わうだろう、腕の不自由さ。
取れるはずの物が、取れない。
持てるはずの物が、持ち上がらない。

普通の生活を再開させると、
思うように動けないもどかしさが、つきまとった。

イライラしていた。



施設を出てからの数日間は母の家で、お世話になり、
料理をしてもらったり、身の回りの色々をしてもらった。

だけど、自分の動かない体と、
弱ってしまっている精神力から、
迷惑をかけているんじゃないか、
こんなこと面倒くさいのではないか、

母に対しては、申し訳ないような、
自分には、自身を卑下してしまうような、
そんな気持ちばかり持っていた。
015/安静とシャンプー
3日間、頭を洗っていなかった。
こんなこと、初めてだ。悲しい・・頭がかゆい。。

水曜日に手術をして、金曜日の夜、
その部屋に、シャンプーをしてくれる人が来た。
ありえない強さで、ゴシゴシワシワシと頭を洗われたびっくり
豪快に笑うその女性、入院でおとなしくなった心に
パーっと明るい空気を持ってきてくれた。

聞けばこの人、かつら屋さんでもあるらしい。

・・いつかお世話になるのかな。。
営業も兼ねてるんだな。などと、ボーっと思っていた。


そんなスタートをした安静室での生活、
両親からは、嬉しい食事の差し入れがあったり、食事
友達は、漫画を持ってきてくれたりと、
穏やかにのんびり生活できた。


そんな状態ではあっても、腕はまだまだ不自由で、
貼り付けてるテープで脇の皮膚は、今までにない爛れを起こしていた。
包帯を巻いた胸も苦しく、
せきも止まらず、夜はいつも憂鬱だった。



そんな毎日を繰り返し、手術から6日目の朝、
ドレーンがとれた。拍手
014/退院と安静室
退院はすぐにやって来た。

たった、4日間の入院生活だったけど、
ものすごく長い時間に感じた。

動けない・外に出られない・体が憂鬱。

悲しい 動きたい症候群の私は、
ジッとしているのが何より苦痛だった。


入院していた病院は、手術をする為に
場所だけ借りた。という形だったのだ。
しかし今日から、
本来の診察をしてもらっていたクリニックの
提携している施設へと移るのだ。



退院の日も、母が付いていてくれた。

ドレーンを付けたまま、ゆっくりとぎこちなく服を着る。
しかし、服をきれいに着ることが出来ず、何だかへこむ。。

そして、病室を出た。

体の小さな母親に重い荷物を持たせていること、
それ自体が、いやだった。
来るときは持てたものが、退院するときは持てなかった。しょんぼり



タクシー車で、安静室がある施設へ向かう。

ここは、人の家のようで、病院より開放的だ。
食べ物も、好きな物を食べていいそうだ。



そして、ここは色々な人が出入りする。

しかし、話を聞けば、乳がん経験者ばかりだった。
私からすれば、先輩ということになるだろう。
みんな明るく元気に、生活していた。


その時は、わーーーっと明るく話されても、
正直、自分で手一杯の精神状態だった。

だけど、別の部分では、
数年後、私もああやって、元気に笑っていられるといいな ぴかぴか
と素直に思えた。